世界の矢作厩舎とは?その苦難に満ちた道のりを紹介
2005年の厩舎開業以来、数々の名馬を手掛け、これまで通算4度の全国リーディングトレーナーを獲得した矢作芳人調教師。
超エリート校の開成高校卒という異色の経歴を持つ矢作調教師は国際派としても知られ、2021年には日本競馬史上初となるアメリカのブリーダーズカップを同日に2勝という大偉業を成し遂げました。
その目覚ましい実績により、今では海外メディアから「The man in the hat(帽子の男)」と海外でネームド扱いされるほど。
また、肖像権・パブリシティ権に配慮し、特定の人物に類似させるための学習データ使用やプロンプト調整等はおこなっておりません。
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そんな矢作調教師は、現在日本のトップトレーナーとして活躍していますが、調教師になるまでの道のりは苦難の連続でした。
そこで今回は、日本が誇る世界に認められた矢作調教師について紹介していきます。
なお、昨今の矢作調教師の活躍は多くの競馬ファンがご存じかと思いますので、本記事では矢作調教師の生い立ちから厩舎開業までのお話をお伝えします。
1961年3月20日に生まれた矢作調教師は、幼少期から東京都品川区にある大井競馬場内の厩舎で育ちました。
それは、父の矢作和人氏が大井競馬の調教師だったからです。
小学生の頃からよく勉強ができた矢作調教師は、中高一貫の超エリート校、開成中学に入学。
将来の夢は、弁護士か政治家だったそうです。
ところが、その開成中学・高校にて本当の天才の存在を知ってしまいます。
そして当時の矢作調教師は、自分でも絶対に叶わない、超えられない壁があることに気付き、すっかり勉強する気をなくしてしまったそうです。
そこで母校の恩師から「1番好きなことを仕事にしたり、それでお金を稼げること以上に幸せなことはない」という教えもあってか、大学には進学せずに好きなことを仕事にしようと心に決めます。
それが矢作調教師にとって競馬だったのです。
なお当時の日本競馬界では、ハイセイコーに端を発した第一次競馬ブームの真っただ中。
さらに矢作調教師が高校三年生の頃には、テンポイント、トウショウボーイ、グリーングラスといった、通称”TTG”や快速馬マルゼンスキーがターフを沸かせていました。
ただ、大好きな競馬の道に進むと決めても体格的に騎手は難しかったため、まずは厩務員、そしてゆくゆくは調教師としての道を目標にしました。
ところが「競馬の仕事で飯を食う」そんな矢作調教師の夢に父は難色を示します。
最終的には競馬の道に進むことを認めてくれましたが、それには条件があり、1つは地方ではなくJRAに行くこと。
2つ目は、海外に修行に出ることでした。
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それは、父の和人氏が地方競馬の将来性を危惧しており、さらには日本競馬が国際化になると1970年代末の時点で予見していたからです。
そんな先見の明がある父の出した条件を聞き入れた矢作調教師は、海外修行に飛び立ったのです。
矢作調教師の行き先はオーストラリアでした。
これは、将来的にJRAへ所属すると決めた以上、芝のスピード競馬中心の国で学んだ方がよいという判断からです。
そして、1年間という海外修行で特に学んだのが、レース後に行う競走馬ケアの大切さでした。
オーストラリアでは、基本的にローテーションを詰めて競走馬を出走させます。
そのため、競走馬の肉体面はもちろんのこと、精神面においてはリフレッシュがより重要視されています。
その方法とは、川で泳がせたり、海の波打際を歩行させたりといった内容で、これらは決して競走馬を鍛える目的ではなく、あくまでもリラックスさせるためのものです。
そして矢作調教師は、現地の厩務員たちの競走馬への接し方に衝撃を受けました。
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また、オーストラリアの人たちは、とにかく競走馬に対して優しく、レースで惨敗しても「よく頑張ったね」と声をかけ、首元をポンポンと軽く叩いてあげたりするそうです。
その反面、当時の日本の競馬には競走馬に対して優しく接する考え方がなく、競走馬を引っ張ったり、負けた競走馬に対し、罵声を浴びせることが日常的でした。
そのため、いずれも競走馬のメンタル面を第一に考えるオーストラリアでの取り組みは、当時の日本では考えられないことだったと思います。
また、肉体面や精神面だけではなく、育成面においても当時の日本にはなかったインターバルトレーニングが取り入れられていたり、とにかくあらゆる面で合理的かつ先進的だったオーストラリアの地で1年間の修行を終えた矢作調教師は、帰国後、JRA厩務員課程を終えるまでの間、父の元で働くようになります。
そこで調教師として父の姿を目の当たりにした矢作調教師。
それは、すべてを1人で熟す調教師像だったのです。
和人氏は、飼い葉の配合から調教メニュー、事務仕事までを自分自身で行い、さらに競走馬に異変があればすぐに察知できる相馬眼も持っていたそうです。
そんな和人氏のことをものすごく尊敬していた矢作調教師でしたが、その上で父のような調教師にはならないと心に決めます。
それは、何でもできてしまうがゆえのこと。
人に任せるということをしなければ、人材が育たないという考えを持っていたからです。
また、調教師が全馬を管理できてしまうのは当時の大井競馬の規模感だったから成立していたともいえるかも知れません。
しかし、現在ではトレセン敷地内だけ厩舎の管理馬がいるわけではなく、JRAでは成績優秀な厩舎に対しより多くの馬防数が割り当てられます。
さらにその馬防数の最大2.5倍まで競走馬を管理できるため、一口に管理馬といっても実際にはトレセン内にいる馬よりも外にいる馬の方が多いのが現状です。
そうした中で全頭の管理馬を管理することなど現実的に不可能なため、矢作調教師は父を尊敬しつつも父とは違う調教師像を見つめたのでした。
その後、JRAの厩務員課程を終えた矢作調教師は栗東の工藤嘉見厩舎に配属となります。
しかし、ここでは故障した競走馬や気性難を抱えた競走馬ばかりを担当し、年功序列の体質を拒んだ末、2年半後に菅谷禎高厩舎に異動します。
菅谷調教師は、人情味ある人柄で若手だった矢作調教師の仕事ぶりをみて信頼し、すごく可愛がってくれたそうです。
なお、この菅谷厩舎で矢作調教師は厩務員ではなく調教助手として働きました。
調教助手とは、単に競走馬に乗り調教を付けるだけでなく、調教師の補佐的な仕事 から事務的なものまでその仕事は多岐に渡ります。
しかし、将来的には調教師になる目標を持っていた矢作調教師に対し、菅谷調教師は担当馬の入退厩の判断から出走レースの選択、さらには馬主とのやり取りなど、本来は調教師の仕事もすべて任されていました。
父親とは方向性が正反対だった菅谷調教師は、矢作調教師にとっての理想の調教師だったのです。
こうして菅谷厩舎で様々な経験を積んだ矢作調教師は、菅谷厩舎に異動して4年目の1991年からJRAの調教師試験に挑戦しました。
しかし、結果は13年連続での不合格だったのです。
また、肖像権・パブリシティ権に配慮し、特定の人物に類似させるための学習データ使用やプロンプトの調整等はおこなっておりません。
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そもそも調教師試験は5年10年かかって当たり前の世界。
中には、一生受からない方もいるほど難関中の難関です。
単に競走馬に関する知識があり筆が良ければ受かるというものでもなく、人物から経歴に至るまで厳しくチェックされます。
そんな状況下でも菅谷調教師は「絶対に諦めるな。毎年受け続けろ」と励ましたそうです。
そして、通算14回目の挑戦でついに調教師試験に合格しました。
晴れてJRAの調教師となった矢作調教師ですが、開業までの1年間、技術調教師と呼ばれるこの期間をひたすら牧場回りに徹します。
そして、菅谷厩舎で学んだ競走馬の仕入れの大事さを胸に競走馬をひたすら見ることで相馬眼を養い、牧場関係者との人脈を構築していき、目指すべき調教師像の方向性をはっきりと見据えていったのです。
今回は、世界の矢作厩舎と呼ばれるまでの道のりについて紹介しました。
また、肖像権・パブリシティ権に配慮し、特定の人物に類似させるための学習データ使用やプロンプト調整等はおこなっておりません。
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現在の矢作調教師をみるととても13回も不合格になったとは思えませんが、それだけ苦労した先に今の地位が構築されたと思います。
今後も積極的に海外競馬に挑戦する矢作調教師とその管理馬たちには、目が離せませんよね。
また、1番好きで本当にやりたい仕事に就けることは、長い人生において非常に大事な部分であると改めて学ばせていただきました。
そして、このストレス社会で1人でも多くの方が、矢作調教師のような、本当に好きな仕事に就けることを願いたいですね。