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名馬と出会い開花した騎手たち:内田浩一、山田泰誠、塩村克己、大西直宏

騎手と知名度


競馬において、騎手の知名度が単勝人気に大きく反映されることはよくあります。
そのため、知名度の高い騎手から人気馬に騎乗する機会が増えるのは道理です。

逆に知名度の低い騎手が人気薄の競走馬と大レースを勝つことで、その名を日本競馬史に残すことも競馬の醍醐味といえるでしょう。
そこで今回は「名馬と出会い開花した騎手たち」と題して、現役時代に決して知名度が高くなかった騎手たちについて紹介します。

ℹ AI生成
この画像・動画は、AIによって生成された架空のイメージであり、実在の人物・馬・団体等を描写したものではありません。
また、肖像権・パブリシティ権に配慮し、特定の人物に類似させるための学習データ使用やプロンプトの調整等はおこなっておりません。

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・Juggernaut XL(KandooAI)

知名度に関してはあくまでも私的観点ですので、その点はご了承ください。
※なお、各騎手の成績はすべてJRAのみ、Wikipediaを参照しています。

内田浩一とメジロマックイーン


内田浩一元騎手は、1988年に当時栗東の名門だった池江泰郎厩舎からデビューしました。
デビューから3年目となる1990年には、自己最多の26勝を挙げ、中日新聞杯(G3)を15頭中10番人気だったドウカンジョーで制し、重賞初制覇も記録します。

そして、内田騎手が名馬と出会い、G1ジョッキーになったのもこの年です。

その名馬とは、メジロマックイーンです。

メジロマックイーンといえば、武豊騎手のイメージが強い方も多いかも知れません。ですが、実はメジロマックイーンを初めてG1馬に導いたのは内田騎手なのです。

しかし、菊花賞の前哨戦となった嵐山ステークスでは、9頭立ての少頭数ながら圧倒的な1番人気で挑みますが、不利を捌けず2着に終わりました。
誰の目にも明らかに脚を余しての2着という結果に、菊花賞では内田騎手から別の騎手への乗り替わりの話が持ち上がります。
合わせて、武豊騎手への乗り替わりプランが出ていたのもこの頃でした。

しかし、馬主から「1度のミスで若い人を降ろしてしまったら可哀想ですよ。菊花賞も内田くんでいきましょう」と池江調教師は、内田騎手の継続騎乗を進言されます。
迎えた菊花賞では、4番人気と伏兵馬扱いでレースに挑んだ内田騎手とメジロマックイーン。
折り合いながら先行集団に取り付きレースを進めます。

1番人気のメジロライアンは、普段通り差し脚の態勢を取り中団待機、2番人気のホワイトストーンはその内側後方から追走。
道悪の枯れ芝の中、2度の淀の坂を越え迎えた直線では、内田騎手の左鞭にメジロマックイーンが応えます。
そして、最後は内側から伸びてきたホワイトストーンの末脚を凌ぎ、ゴール板を通過。

なお、1番人気のメジロライアンは、ホワイトストーンから1馬身半差遅れること3着でレースを終えました。

メジロマックイーンと内田浩一のイメージ画像
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見事汚名返上を果たした内田騎手は、馬主と師匠の思いに応え、検量に引き上げてくる際にメジロマックイーンの馬上で涙を浮かべ、拳を突き上げたのでした。

(生涯成績 320勝 重賞 7勝 G1 1勝)

山田泰誠とメジロパーマー


1989年に栗東の田中良平厩舎からデビューした山田泰誠元騎手。
同期には、田中勝春現調教師、角田晃一現調教師、佐藤哲三元騎手など往年の名騎手がズラリと並ぶ中、山田騎手はあまり目立つ存在ではありませんでした。

しかし、デビューから4年目にあたる1992年にブレイクします。
アーリントンカップ(G3)をエルカーサリバーで制し重賞初勝利すると、山田騎手にとって運命の馬と出会いました。

それがメジロパーマーです。

メジロパーマーとは、その年の天皇賞(春)にて初コンビを形成しますが、ここでは12番人気ながら逃げて7着と好走。
次走の新潟大賞典(G3)では、イクノディクタス・レッツゴーターキンといった並みいる強豪馬を寄せ付けず逃げ切り勝ちにて、山田騎手自身重賞2勝目を挙げます。

そして、春のグランプリ・宝塚記念(G1)では、カミノクレッセに3馬身差付けて人馬ともにG1初制覇。
さらには、暮れの有馬記念で16頭中15番人気ながら、再び逃げ切り勝ち。

山田泰誠とメジロパーマーのイメージ画像
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同一年のグランプリ制覇を果たし一躍有名となりました。

翌1993年にも勢いは続き、エルカーサリバーで年明けの金杯(G3)と日経新春杯(G2)を連勝し、メジロパーマーでは阪神大賞典(G2)でタケノベルベット・ナイスネイチャを抑えて逃げ切り勝ちを見せました。
続く天皇賞(春)でも逃げてライスシャワー・メジロマックイーンに次ぐ3着に入る奮闘をみせ、この年は自己キャリアハイとなる25勝を挙げました。

しかし、その後は長年10勝前後と勝ち鞍から遠のきます。
それでも2001年のCBC賞(G2)をリキアイタイカンで7年ぶりの重賞勝利をマークしましたが、2003年は10月11日が最後の騎乗となり、同月31日付けで現役を引退しました。

今思えば、メジロパーマーとの共闘が山田騎手のピークだったのかも知れませんが、日本競馬史に燦然と輝く記録を残したことは間違いありません。

(生涯成績 193勝 重賞 9勝 G1 2勝)

塩村克己とネーハイシーザー


塩村克己元騎手は、同期に武豊騎手や蛯名正義騎手らがいる第3期生として騎手学校に入学しました。
1987年に栗東の小林稔厩舎からデビューし、1年目は同期で新人最多勝利記録を更新した武豊騎手(69勝)に次ぐ33勝を挙げ、若手のホープとして期待されます。

そして、デビュー2年目も初年度を上回る勢いで35勝を挙げましたが、暮れの愛知杯(G3)にて、ハギノトップガンに騎乗した際に転倒し落馬。左腕を複雑骨折する大怪我を負いました。

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その後、約10ヶ月の療養を経て、無事に復帰すると年末の阪神牝馬特別(G2)を9番人気のルイジアナピットで制し、重賞初勝利を挙げました。
復帰以降は年間20勝前後の成績が続き、1993年には小林厩舎を離れてフリーに転身。
その結果、騎乗依頼が減少します。

この様子を見兼ねた布施正調教師からネーハイシーザーの騎乗を依頼されました。
この出会いが、塩村騎手にとって名声を上げることとなります。

そんなネーハイシーザーは快速を売りにするサクラトウコウ産駒で、1993年の中日スポーツ賞4歳ステークス(G3)のレコード勝ちを始め、翌1994年には大阪杯(G2)と京阪杯(G3)をコースレコード、毎日王冠(G2)は、日本レコードと次々に重賞を勝利します。
その勢いのまま、同年の天皇賞(秋)では、ビワハヤヒデ・ウイニングチケットに次ぐ3番人気に支持され、レースではビワハヤヒデのアクシデントもありましたが、最後はセキテイリュウオーに1馬身半差を付けて優勝。

人馬ともに唯一のG1制覇を果たし、塩村騎手は、この年、自己最高の41勝を挙げたのです。

(生涯成績 289勝 重賞 7勝 G1 1勝)

大西直宏とサニーブライアン


大西直宏元騎手は、中尾銑治厩舎に所属し、1980年3月1日に中山競馬場でデビューしました。
同年には、9勝(うち障害1勝)を挙げ、最優秀新人賞を受賞します。

その後、デビュー2年目には第1回ジャパンカップ(G1)でゴールドスペンサーに騎乗し、5着と日本調教馬で最先着する活躍をみせました。
そして翌1982年にはアラブ大賞典・秋を制し初重賞勝利を挙げたものの、成績自体は伸び悩みます。

転機が訪れたのは、それから5年後の1987年の日本ダービー(G1)でした。

ここでは、22番人気のサニースワローでメリーナイスの2着に入る大波乱を演出。
これは、日本ダービーの複勝レコード(複勝4,680円)となりました。

しかし、1991年は年間1勝に終わるなど目立った活躍はほとんど見られず、いつしか”忘れられた騎手”とまで報じられました。

そんな大西騎手に再び転機が訪れたのが、自厩舎に所属することになったサニーブライアンとの出会いでした。

このサニーブライアンこそが、大西騎手の名を全国区に押し上げることになります。
サニーブライアンは、大西騎手とのコンビで1997年の皐月賞を11番人気ながら逃げ切り、人馬共に初G1制覇を飾りました。
これは大西騎手にとって14年4か月ぶりの重賞勝利となりました。

大西直宏とサニーブライアンのイメージ画像
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[使用ツール・モデル]
・DALL·E 3
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その後次走の日本ダービーでも同馬とのコンビで、6番人気と相変わらずの低評価ながら、スタート直後に猛加速し先頭に立つと同時に一気にペースを落とすという騎乗で、最後まで一度も先頭を譲らない鮮やかな逃げ切りを見せ二冠を達成。
レース後のインタビューでは「1番人気はいらないから1着だけ欲しいと思っていました。」とのコメントは、大西騎手を象徴する言葉として現在でも多くの競馬ファンの脳裏に焼き付いていることでしょう。

また、サニーブライアンは10年前に日本ダービーで2着に入ったサニースワローの甥にあたります。
さらに馬主も厩舎も同じ、大西騎手の”逃げ”作戦まで同じということでも話題にもなりました。

その後、ダービージョッキーとなった大西騎手は、新潟競馬の直線競馬競走の初勝利騎手としても名を残し、2000年には、ジャパンダートダービーを制したことで、日本における芝・ダートのダービー制覇した史上初の騎手となりました。

(生涯成績 521勝 重賞 11勝 G1 3勝)

まとめ


今回は、名馬と出会い開花した騎手たちについて紹介しました。

騎手の世界はとても厳しく、G1レースや重賞を勝てないまま引退する騎手も少なくはありません。
よって、知名度という観点からみれば、大レースに勝てなかった騎手は競馬ファンの記憶からも薄れていく可能性が高いです。

しかし、G1ジョッキーとなれば必ず名馬に紐づいて、その騎手の名は競馬ファンの心にいつまでも残り続けていくと思います。
そして、今回ご紹介した騎手も間違いなくその中に名が刻まれており、この先も日本競馬史において輝きを失うことはありません。

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